妥当な点は感覚に依存するよね

上手く言葉に出来ないんだけど書く。
例えば自分が主張したいことを述べるとき、ポジションを明確にすると思う。私は「こう思う」と、言葉に表すと(実際はつらづら説明するんだけど)一言に集約されることになる。でもその時に本当ははっきりと自分の主張に織り込めない、対極の考え方とのもやもやした境目があることがあるし、よくよく考えるとそういう事は結構あるものな気がする。
逆に、主張を分かりやすくするために単純な問題にして語ったけど、本当は、どちらかといえばこっち、とか、ここまで極端な話じゃないとか、十把一絡げにすんなと思ったりするわけですよ。
それでも意見が対立したときは、いきなり着地点を見つけることはないから、大抵はその境目を天秤にかけたり、優先度を振ることで綱引きをしたり、あえて互いを極論にしてぶつかりあったりするし、まぁ議論とか対話ってそんなもんだとは思ったりする。
ただ、稀に、本来は分かりやすさのために単純化・極論化したのに、主張がそのまま極端な方にシフトすることがある気がする。または相手に極論化されて引き摺られて、本当は妥協点を探るのが目的だったのにいつの間にか主張がガチンコでぶつかって、外から見たらどっちもどっちみたいな扱いをされたり。
これは会話でも文章でもよくあることなんだろうけど、なんとなく文章のほうがよく起こる気がする。なんでかなと想像してみた結果、考える「間」が見えないからなのかなと仮説を立ててみた。
意見と意見がぶつかり合う境目、場合によってはもっと曖昧な何かが双方の間にある。境目なので、どちらかが悩んだり考えたりはっきり言えなかったり、場合によっては妥協することがあるはず。会話ならそこが互いに掘り下げるべきポイントとして認識されて、話が進むはず。(双方が答えを用意していてぶつかると平行線だけど)でも、文章はどうしてそう考えたかの過程は見せても、本人も気付かない揺らいだポイントや引っ掛かったところをカットしてるから、極論vs極論になりやすいのかなと。

どうすればいいのかについてはまだ考えられていないけど、とりあえずここまで。