特異である恐怖と当たり前である恐怖(書きかけ)

ブックマークでミスリードしてしまった感があるので、ちょっと書いてみる。

発端となった事件
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090328k0000e040073000c.html

ブックマークした元記事
2009-03-28

自分のブックマーク内容

例えば自分は先生いじめを見た事ないけど、それが自分の時代に先生いじめがなかった証左にならないというか、体感したかどうかでそれが「よくある事」かどうかが個人毎に違ってくるのが話をややこしくしてるのでは。

100文字制限の中で記載した「良くある事」という記載が色々失敗したなと思った。

発端となった事件に対するリアクションをものすごく大雑把に抽出すると、

    1. 先生いじめ自体は昔からあった
    2. 先生いじめ自体はあったかも知れないが、自分が中学生の頃ならそこまで酷い事をしようとは思わなかった

という一見相反する意見がある。

まず、ここの感覚差は自分が思春期の時代に「先生いじめ」というのをリアルタイムで認識したことがあるかどうかがあると思う。

ブクマに書いたとおり、私は先生をいじめたケースというのにはお目にかからず育ったから、先生いじめというのはドラマか何かの話のように感じてしまう。その場合、今回のような事件で感じるのは、「昔の自分」という座標とその事件との距離感に違和感や恐怖を覚えるのではないかと思う。または先生いじめを経験しつつ、その内容の差異・距離感に「こんなに残酷ではなかった」という思いを持つのではないかと思う。
ただ、「昔の自分」という座標は「もし当時の自分が先生いじめに直面したら」「もし当時の先生いじめの標的である先生が、妊婦さんだったら」というIFが基になっているので、おそらく実際の「昔の自分」より精神面というか情緒の部分が成長した視点で俯瞰して考えている部分があるので、当時の自分が本当にその状況に巻き込まれた時、自分が非情な選択をしないとは限らない、という事は意識すると別の視点が見えてくるのではないかと思う。

一方、「昔から変わらない」「いかにも中学生らしい」と感じた人は、自分の経験から思春期の無邪気な残酷さを覚えている方なんだと思う。じゃその人が、そんなの良くある事だよ、と思っているかといえばそうじゃないと思う。「昔の自分」という一番身近で一般的に感じるモデルケースを座標として事件を考えたときに、当時の自分が考え方や行動の延長線上に残酷な事件があるという、なんというか陸続き感が怖いのではないかと思う。イメージするなら、取り返しのつかないミスをしそうになった瞬間のゾッとする感覚のような怖さ。または陸続き感に安心している面もあると思う。陸続きであれば、「理解できない故の恐怖」というものはないので。

ちょっと急用ができてしまったので、一旦アップ。